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新聞記事からー広島

先日大雨で広島に大きな被害がありました。同じ夜、この辺は降り止んだ後に、30秒に一回くらいの割合で数時間に渡り、空が明るく照らされていました。音がなかったので、雷じゃないなあ、、と思っていたら、翌朝広島の被害を知りました。広島の雷の光だけはここまで届いていたのです。

原爆が落ちたときも大田(広島から50~80キロくらい)の人の「変なもん(光やキノコ雲)を見た」話を人づてに聞いたことがありましたが、今回の雷の光で「本当だったんだ」と改めて思いました。

ところで、最近無用なものをドンドン捨てているのですが、「これは」と思うものだけざっと残しています。整理してから、その中にある新聞記事を読み返してみました。大分前に中国新聞に出た叔父(石田種生)が書いた記事でした。それを読むと、映画でも見るようにその光景が見えてきて興味深かったので、8回の話の中の最後のエッセイだけ転載します。召集された一番上の兄とは私の父です。「広島の四季」という題名で、冬からはじまり、夏、秋、そして春の話と続きます。

昭和十八年・冬

男ばかり五人兄弟の一番上の兄が二度目の召集をうけ、広島に入隊した。間もなく南方へ発ちそうだという報(しら)せで、両親・長兄の嫁の義姉、四番目の兄、私、一家総出で、宍道から木次線に乗り換え、備後落合から木炭バスで広島にでた。

いま、そこがどこらあたりなのか、見当もつかないが、大きな旅館の二階に部屋をとった。やがて、「公用」と赤い字で書かれた腕章をした兄がやって来た。義姉だけを残して、私たちは高い建物が並ぶにぎやかな通りに出、「関の孫六」といいう映画を観た。

その映画館のトイレで小便をしていると、何もしないのに突然、シャーときれいな水が流れでてきた。ビクッとして小便が止まりそうだった。帰って中学二年の級友に、そのことを話すと、彼は「都会人は、ションベンしながら顔も洗うだが」と知ったかぶりをした。

私たちはひと晩泊まりで帰ったが、義姉は残った。帰る際に、母が義姉に小さな声でいっていた。「別れる時の顔は、いつまでもおぼえているもんだき、泣かんようにな、、」
これが、私にとっての最初の広島である。

昭和二十年・夏。

その時、私は学徒動員先の名古屋から帰郷していたが、中学校は、まだ広島陸軍病院の分院になっていた。

ある日、山を越えて異様な貨物列車が到着した。私たちはタンカを持って駅に集合したが、そこで見た光景は、まさに地獄絵巻さながらであった。人間がいきるためにとるさまざまな動作を凝縮させたまま、焼けただれた全裸の、半裸の、片腕の、片足の百人近い兵隊さんが、そこにいた。一人の兵士はご飯を食べるかっこうをしていた。次の動きを奪われたその姿は、悲惨であった。

私は戦後になって戦争を体験した。

ついさっき、かつてこの分院で看護の手伝いをしていた女友達に電話でたずねると、九日から閉鎖される二十八日までに三百人の原爆患者が送られてきたが、生き残ったのはわずか三十人だったそうである。合掌。

それから数年たった秋。

広島大のボート部主催のバレエ公演で、二度目の広島を訪れた。楽屋に「バレー選手控室」と張り紙がしてあった。

毎年の春。

母と一緒に桜の宮島を散策したいと思っているが、まだ果たさない。母は九十歳になった。
(バレエ演出家)
転載終わり。

原爆患者の地獄絵図の話は直接にも何度か話を聞いていました。叔父はその印象が強烈だったのか、二十年くらい前に、原爆をテーマにした「ヒロシマのレクイエム-うしろの・しょう めん・だあれ」をアメリカで公演する予定でしたが、アメリカ側から拒否されたと記憶しています。
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