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非日常の始まり 1

6月11日の午後、田んぼに行こうとしたら、一人の小柄な男性が尋ねてきました。その人がだれかわかりませんでしたが、何故だか一目見た瞬間に、その日に関しての「嫌な予感」を感じました。それが見事に的中してしまいました。 

前日、借りている田んぼに持っていった耕耘機を小屋から出して、田んぼに向かってアスファルトの坂道を上がりました。一旦止めて、さて田んぼに向かって入ろうとしてギヤーを入れた途端に、耕耘機は突然バックしてきたのです。私の方へ、つまり坂の下に向かって動き出しました。意思のない耕耘機が、まるで私に歯向かって来るかとごとくに恐ろしく見えました。自分の操作通りに動作しないことでパニックにもなりました。耕耘機は何百キロもあり、とうてい自分で止められる重さではありません。2、3秒間の間に「あれ、どうしたんだ?」「どうしたらいいのか?」と同時に、そのまま数メートル行けば県道に出るので車との衝突が怖くて、ハンドルを持ちつつちょっとだけ後ろを振り返りました。視野には車はなかったものの、すぐに前を向くなり、右手、左手で何らかの操作をした直後に気を失ってしまいました。その後の数十分間の無意識、無人状態がありました。

たぶん石か何かにつまずいて転び、後頭部を強く打ったのだと思います。気がついた時には、朦朧としていて目が開けていられず、三人くらいの人が周りで慌ただしく話をしていました。その一人が近所の人だとわかりましたが、他に救急隊員がいるのもわかりました。朦朧としたままの状態で人の声を聞いていましたが、「ヘリコプターで運ぶ」という声。「え、ヘリコプター。すごいな、上から眺めたいなあ」とその時だけは、自分の状態を省みずそんなことを思っていました。しかし、とてもそんなことができるわけもなく、ずっとただ横になっているだけでした。

数日後、病室に当日の救急隊員が尋ねてきました。「覚えていますか」と言われても、僕にはほとんど視覚的記憶がなく、初めて見る人でした。たぶん隊員には目を開けているように見えても、見えていなかったか、記憶が飛んでしまったか。

そんな状況下でも、はっきりした意思表示をしたことがあります。先日回覧板を持って来た方もその時に集まった一人ですが、その人が言ってました。集まった中に僕の連絡先を知っている人がいて「これこれに連絡しましょうか?」と僕に訊いたらしいです。首を振って「それはいいです」とはっきりと断ったそうです。僕自身は覚えていませんが、瀕死の状態でも「○○にはお世話になりたくない、なったらたいへんだ、嫌だ」という意識が明確にあることが、わかりました。何だか安心しました。

ところで、最初の発見者はお坊さんでした。最初に病院に駆けつけた一人も大家のお坊さんでした。退院決意のための助言をしてくれたのも友人の医師兼お坊さんでした。三人のお坊さんにお世話になりましたが、お葬式の世話にならなかったのは幸いでした。

視覚的にはっきりしたのは、県立出雲中央病院の救急の集中治療室でした。私の周りには医師が二人と看護婦が一人がいました。彼らが話しかけるときは必ず、私の顔から30センチから50センチくらいのところから話しかけて来たので、彼らの顔を良く記憶しています。意識もかなり快復して、受け答えもしっかりしていたと思います。事故の説明をしてくれたのですが、どうも耕耘機とガードレールに挟まれた状態で見つかったようでした。しかし、気を失った地点からガードレールまでは4~5mはあり、その間耕耘機に押されたか、引っかかった状態で運ばれたかしたわけですが、そんなことがあるかなあと不思議でした。とにかく記憶の無い間に僕は耕耘機に犯されたわけで、その状況がどうも不可解でした。もし、当時のことがビデオで見ることができたらなあと何度も思いました。

おしっこがしたくなりましたが、自分で動いてはいけないと言われ若い看護婦さんに、おちんちんをし尿便の中に入れてもらいました。初体験でしたが、神経が麻痺しているのか、いつもは敏感なところがほとんど何も感じること無く終わりました。

しばらくして、CTスキャンで調べることになりました。それには本人の了解が必要で、いろいろと説明を受けたりしましたが、CTスキャン=放射能汚染と思っていたので、「放射能汚染は嫌です」と答えましたが、何か安心させるようなことを言われて、何となく納得しましたが、「殺さないで!」と叫んだ記憶もあります。

CTスキャンの部屋に運ばれて、スキャンの中に入りました。やや薄気味悪い感じはしたものの、別にどうということもなく終わり、結果も異常なしでした。異常なしと言っても、二本の肋骨にヒビが入っていました。それが今でも痛みます。何故、大げさにもヘリコプターで運ばれたのかと言えば、私自身が意識朦朧としていて、自分で身体を動かすこともできず、あちこちを打ったり挟まれたりしているので、最悪内臓に衝撃を受けて内臓破裂とかそういうことを想定したようです。しかし、それは全くありませんでした。

命にはかかわりませんが、他には後頭部の打ったところが痛み、鼻の上部から額にかけて農具のどこかにぶつけたらしくて、わずかな外傷と痛みがあり鼻血がしばらく止まらず、さらに左胸部の一部に痛み、両足の膝にわずかな外傷がありました。

事故からたぶん5時間くらい経ってから、病室に移されましたが、その時点でもまだ自分で身体を動かすこともできないくらい、というか、動かす気持ちに全くなれませんでした。なされるがままという感じでした。

これでやっと安らかに寝られるかと思ったら、地獄のうめきが聞こえました。うめきではなくて、同部屋の人のタンがひっかかり、それに苦しむ声、看護婦が駆けつけてそれを吸い出す吸引機の音。一連のそれらの音が私の耳を苦しめました。それはまるで地獄のうめき声に聞こえたのです。

こんなに身体が痛くて動けない上に、こんな音まで一晩中聞かなければならないかと思うと、堪え難い気持ちになりました。とても我慢ならないと思い、ブザーで看護師さんを呼んで何とかしてほしいと頼みました。しかし、そういう苦情を誰も言わないのか、対応マニュアルはなく「ティッシュでも耳につっこんで」と言われました。

たまたま所持品に農作業するときのための小型のラジオとイヤホンが近くにあり、何とか装着しましたが、感度が悪く入りません。イヤホンだけでは、タン汁の音はもろに聞こえます。それで再び看護師を呼んで「耐えられません」と訴えると、「相談する」と言って出て行きました。

身体の痛さよりも、地獄のうめき声の方が自分を苦しめ始め、もし、このままならば、動けない身体を動かして廊下に出ようかと思っていましたが、30~40分(自分の感覚)もしてからやっと、「部屋を変えます」といって三人の看護婦が来ました。私の私物やら何やらを断りもなしに、私の身体の上に投げてきました。可動ベットは運搬車でもありますが、「僕はモノですか?」と訊きたくなるような対応にちょっと閉口しましたが、病院ではよくある風景のような気がしました。看護師さんたちは無意識にしている行為なんでしょう。

それと集中治療室と違うなあと思ったのは、3階の救急病棟では看護婦全員が立ったままで患者と話すことです。顔に顔を近づける人はいません。だから、そのときの看護婦さんの顔は誰一人覚えていません。顔を近づけて話すことは丁寧な対応ですし、良く聞こえもしますし、聞いてももらえますが、何よりも患者に安心感を与える行為だと思いました。そういうことが徹底しているわけじゃないんだなあと思いました。救急患者のためだけの特別待遇だったわけですが、僕はその時点でもまだ救急患者ではあったのですけど、単に担当部署が変わっただけなのです。

個室に通されました。個室は値段が高いのですが、特別待遇ということでした。三人の看護婦さんは夜中の救急患者の要求にけして心良く応じてくれたわけでもなく、半分腹立ち紛れにしていたような感じでした。一人の看護婦が廊下に出た時に名前を訊こうと思って(あまりにふてぶてしいので)「ちょっと、ちょっと」と救急患者としては大きな声で呼んでみたのですが、振り返ることもなく、立ち去りました。残っていた看護婦に「あの人の名前は何ですか」「何故」(わざと)「お世話になったのでお礼を言おうと思って」「訊いてきます」「?????」不思議なことを言う人だなあと思いました。同僚の名前が言えないのでしょうか。恐ろしい先輩看護婦なのか?、、しばらくして、自らおかしいと思ったのか、名前を教えてくれました。

その個室で安心して寝ることができたわけですが、翌朝この病院、何か変だなあという思いがあり、婦長が来たらはっきり言ってみることにしました。婦長は同情するかのごとく、受け答えしていました。「患者は金を儲けるための道具なんじゃないか」と厳しいことも言いました。にもかかわらず「何でも言ってくださいね」という言葉も最後に付け加えました。心がけがいいなあと良い印象でした、が口だけだと後でわかりました。

現代西洋医療に疑問を感じている私自身なので、こういう場所に寝ていること自体がおかしかったのですが、当時は瀕死状態に見えたし、ヘリコプターで否応無く連れて来られたので、致し方無しですが、やはり現代の病院はおかしいと5泊6日の入院で実感しました。

第一に病院側中心だということです。患者がどうしてほしいかではなくて、医師や看護師がどうしたいかの方が大事にされているなと思いました。タン汁の一件が典型的です。たぶん、患者の立場でタン汁の音を聞いたことがないのでしょう。もし、私が我慢できなくて動けない身体を無理に動かしてさらに身体を痛めたら、だれの責任なのでしょう。我慢強くない患者のせいでしょうか。タン汁に文句を言わない患者がほとんどだとすれば、患者自体が自分のために病院があるのではなく、入院させてもらっているとか、医師を崇めていたり、、というどこかお上意識が働いているように思います。

ヒビの入った二本の肋骨は、咳、くしゃみ、シャックリ、深呼吸など、身体に振動を与えるものに非常に敏感で、電気のような速さで激痛が走るので、それらが出そうになったら、どんな方法ででも止めるようになりました。また、身体を少し動かすだけでも痛いので、どうしたら寝る姿勢を変えることができるのか、自分で工夫をしてゆっくり肋骨にわからないように動かないといけません。起きる、寝るの行為は今でもゆっくりやらないと、場合によっては悲鳴が出ます。

毎日午前中が特に痛かったのですが、帰宅した翌朝は意外にも身体が軽くて、「やっぱり家はいいな」と思った瞬間に突然くしゃみが出て、それがひび割れた肋骨にもろに直撃し、初めてどこの部分がひび割れたかがミリ単位で具体的にわかりました。と同時に、大きな悲鳴が出て翻筋斗打って(モンドリウツと読みますが、意味は とび上がって空中で一回転することーとありますが、それほどでなくてもそういう気分でした。実際そういうことをすれば、ひび割れが骨折に変わります!)「ああ、せっかくくっつき始めた骨がまた割れた!」と思いました。

まあ、そういう痛さなのですが、それを看護師に話しても、いつものように錠剤を一個くれるだけ。それはほとんど効き目が無さそうだといっても、毎度毎度そればかり。それで、何とかならんもんかと二度ほど看護師に「できれば痛いところを手でさすってください」とお願いしました。手を当てるー「手当」です。しかし、彼らはそういうことをした経験がほとんどないのでしょう。どう手を当てたら患部が落ち着くか知らないのです。指の先だけを当てて、単に触るような感じでしか手当できないのです。「気休めにしかなりませんよ」と言いながら。

「手当」は気休めだとは思えません。実際に上手に手を当てれば、かなり落ち着くのは事実です。精神的なものも作用すると思いますが、実際スキンシップという人間として、動物として誰でもが持っている感覚の大切さでもあります。それが看護婦にも医師にもほとんどないのが現代の医療、現代の病院の姿なんだと実感しました。手当ばかりでなく、通常でも彼らが患者に触れることはほとんどなく、せいぜい脈を診る、血圧を測るときにわずかな接触があるだけです。

「ここが痛い」と言っても、その患部を見ることさえしません。ただ、条件反射的に「薬」しか思い浮かばず、痛い場所を見るとか、どうなっているのか観察するとか、ちょっと撫ぜてみるとかいうことはありえないことです。

だいたい、看護師も医師も患者から2mくらいの位置で、立ったままで話します。それが彼らの仕事です。患者や患部を見ることよりも、毎日毎時間何をしているかと言えば、パソコンの画面を見ています。確かに患者のすべてのデーターがそこにはあるのでしょう。しかし、実体はそのベッドの上にあることを忘れているかのようです。

彼らにとって、情報は患者の身体にはないのです。情報はすべて、検査の機械が教えてくれ、それがパソコンにコピーされていて、それを見てさえいれば患者のことはすべてお見通しだと思っているのです。人間が不在なんじゃないかと思わせます。

昔の医師は、人間の身体から情報を直接得たと思うし、それによって医師は見る力を得たでしょうし、医師としての力量を増していったと思われますが、今はパソコン上の情報をいかに読み解くかなのです。もし、そういう機械類が失われれば、あるいは無ければ何もできないに等しいでしょう。しかも、重要なことは、それらのすべてが電力会社から供給される電気があってこそ機能するものばかりです。自家発電装置もあるそうですが、それも一時的なものです。

すべてが依存的で、自分の力量でできることは限られたものです。我々の生活自体がお金との交換で成り立っていることと似ています。裸になったら、何もできません。

機械万能主義は見直されるべきだと思います。使い方を誤れば、患者は放って置かれ、彼らの中にあるのは、患者ではなく「患部」。しかもすべてが部分的患部なので、対症療法しかしません。今回、あちこち打ったり挟まれたりしているので、その部分的な患部の状態もさることながら、そういう打撃を受けた身体全体のこともあると思うのですが、そういうことにはまったく無関心なのも、不可解でした。実際、身体全体が重くて、尿も濃くなるし、身体の調子が悪くなっているのは自分でも自覚できました。それを訴えても、彼らは何もしません。関心があるのは、検査で見えた問題の箇所のみ。

ところで、西洋医療とは対局にある民間治療(医療)ですが、それはまた逆に身体から情報を得て、身体に直接働きかけます。西洋医療と違い、対症療法ではなく常に身体全体の状態を重視しています。しかも、副作用のないものがほとんどです。そういうものに人気があったり、実際に治療がうまくいくのは、西洋医療にはない大事な要素があるのでしょう。

それは今、見直される時期に来ていると思います。何千年もの歴史を持つ民間治療法と現代の科学が産んだもの両方をうまく使い分けてこそ、新たな方向性の治療法が確立されると思います。日本はその点でかなり遅れをとっているというか、民間療法を軽視しているし、邪魔者扱いという感じがします。それもたぶん西洋医療側にいる人間の儲け主義によるものではないかと思います。
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